2010年01月29日
キッチュなグラス
とても可愛いグラスをご紹介します。
この時代だからこそというデザインです。
グラスをこんな角度で見るとキッチュに見えます。因みに皆様“キッチュ”という言葉の意味を知っていますか??
私は、本来の意味を知らずに長年使い続けていました。ある時古本屋でファッション語録事典を購入して読んだところ意外な言葉の意味が…。
キッチュ(kitsch)…美学・芸術学において、一見、俗悪、異様なもの、毒々しいもの、下手物など事物に認められる美的価値である。元はドイツ語だが、英語でも同じ綴りで浸透している。キッチュは、芸術作品や、複製技術の発達した近代・現代の、大量生産された工芸品などに見いだせることがある(いわゆる芸術作品に対してのみ使われる言葉ではないことに注意)。芸術の中では、サルバドール・ダリのいくつかの作品をキッチュと呼べる。またシンガポールのハウ・パー・ヴィラ(タイガー バーム ガーデン)や、日光東照宮、霊柩車が、典型的なキッチュの例として知られている。VOW やその類似の企画でもキッチュと呼べるものが紹介されていることがある。
キッチュの定義として「陳腐である」という表現もされるが、この点については注意する必要がある。単に陳腐なだけでは、それをあえてキッチュと呼ぶ必然性はないからである。あまりにも陳腐であるが故に、周囲の注目を集め、独特の存在感を呈するもののみがキッチュたりうる。
キッチュとは、「見る者」が見たこともない異様なものか、「意外な組み合わせ」「ありえない組み合わせ」であろう。もしくは、「見る者」にとって異文化に属するものであったり、時代を隔てたりしている必要がある。「見る者」の日常性に近すぎると、新鮮味のない、陳腐な存在でしかなく、そもそも注意を引くこともない。キッチュの観点から言えば、「普通」であることは、キッチュとしての美的価値が不足していることを意味する。また、キッチュは、時間的な隔たりという点では、レトロ、懐古趣味と関連していることがある。
また、キッチュは、世界各地の伝統的・近代的な民芸品、人形、仮面、像、図像、幼児の玩具などに見られる。たとえば、マトリョーシカ、こけし、祭りの出店の面、庭に置かれるノーム(こびと)の人形、多神教の図像、アニメのコスプレなどである。赤、緑、青、黄、ピンク、金、銀などのどぎつい色が特徴となる場合もある。
音楽においてはワーグナーやチャイコフスキーが挙げられる。
動物同士、動物と人間の組み合わせ、「怪物」がキッチュを呈することもある。これは本来「ありえない組み合わせ」だからである。ただ、キマイラ、ケンタウロス、ミノタウロス、人魚など、神話上の怪物の図像はよく知られているため、意外さを感じさせない。キッチュが見られるとしたら、(特に異国の)古代や中世の図版に現れる、名もなき怪物などである。
キッチュは、単にグロテスク、もしくは不細工なだけでは成立しない。ヒエロニムス・ボッシュの絵画や東アジアの地獄絵のように、過剰な表現、意外な組み合わせから一種の滑稽さが現れることがあるが、それは必ずしも制作者の意図とはかぎらない。むしろ、制作者の意図は真剣そのものであり、キッチュとみなされるのが不本意かもしれない。だが、キッチュは最終的には「見る者」が感じる美的価値である。つまり、キッチュは表現者による、意図的・積極的な表現手法であることもあるが、「意図しないキッチュ」「見方としてのキッチュ」もある。
(Wikipediaより)
どうでしょう。このグラスをこんな角度で見たからこそ“キッチュ”という言葉が合う気がしませんか??
こんな風に夜にこのグラスを見るとまた、違う顔が見えます。
大人の香りが漂う時間が流れていそうです。
さて、本日は、この辺に。
それでは、また。
この時代だからこそというデザインです。
グラスをこんな角度で見るとキッチュに見えます。因みに皆様“キッチュ”という言葉の意味を知っていますか??
私は、本来の意味を知らずに長年使い続けていました。ある時古本屋でファッション語録事典を購入して読んだところ意外な言葉の意味が…。
キッチュ(kitsch)…美学・芸術学において、一見、俗悪、異様なもの、毒々しいもの、下手物など事物に認められる美的価値である。元はドイツ語だが、英語でも同じ綴りで浸透している。キッチュは、芸術作品や、複製技術の発達した近代・現代の、大量生産された工芸品などに見いだせることがある(いわゆる芸術作品に対してのみ使われる言葉ではないことに注意)。芸術の中では、サルバドール・ダリのいくつかの作品をキッチュと呼べる。またシンガポールのハウ・パー・ヴィラ(タイガー バーム ガーデン)や、日光東照宮、霊柩車が、典型的なキッチュの例として知られている。VOW やその類似の企画でもキッチュと呼べるものが紹介されていることがある。
キッチュの定義として「陳腐である」という表現もされるが、この点については注意する必要がある。単に陳腐なだけでは、それをあえてキッチュと呼ぶ必然性はないからである。あまりにも陳腐であるが故に、周囲の注目を集め、独特の存在感を呈するもののみがキッチュたりうる。
キッチュとは、「見る者」が見たこともない異様なものか、「意外な組み合わせ」「ありえない組み合わせ」であろう。もしくは、「見る者」にとって異文化に属するものであったり、時代を隔てたりしている必要がある。「見る者」の日常性に近すぎると、新鮮味のない、陳腐な存在でしかなく、そもそも注意を引くこともない。キッチュの観点から言えば、「普通」であることは、キッチュとしての美的価値が不足していることを意味する。また、キッチュは、時間的な隔たりという点では、レトロ、懐古趣味と関連していることがある。
また、キッチュは、世界各地の伝統的・近代的な民芸品、人形、仮面、像、図像、幼児の玩具などに見られる。たとえば、マトリョーシカ、こけし、祭りの出店の面、庭に置かれるノーム(こびと)の人形、多神教の図像、アニメのコスプレなどである。赤、緑、青、黄、ピンク、金、銀などのどぎつい色が特徴となる場合もある。
音楽においてはワーグナーやチャイコフスキーが挙げられる。
動物同士、動物と人間の組み合わせ、「怪物」がキッチュを呈することもある。これは本来「ありえない組み合わせ」だからである。ただ、キマイラ、ケンタウロス、ミノタウロス、人魚など、神話上の怪物の図像はよく知られているため、意外さを感じさせない。キッチュが見られるとしたら、(特に異国の)古代や中世の図版に現れる、名もなき怪物などである。
キッチュは、単にグロテスク、もしくは不細工なだけでは成立しない。ヒエロニムス・ボッシュの絵画や東アジアの地獄絵のように、過剰な表現、意外な組み合わせから一種の滑稽さが現れることがあるが、それは必ずしも制作者の意図とはかぎらない。むしろ、制作者の意図は真剣そのものであり、キッチュとみなされるのが不本意かもしれない。だが、キッチュは最終的には「見る者」が感じる美的価値である。つまり、キッチュは表現者による、意図的・積極的な表現手法であることもあるが、「意図しないキッチュ」「見方としてのキッチュ」もある。
(Wikipediaより)
どうでしょう。このグラスをこんな角度で見たからこそ“キッチュ”という言葉が合う気がしませんか??
こんな風に夜にこのグラスを見るとまた、違う顔が見えます。
大人の香りが漂う時間が流れていそうです。
さて、本日は、この辺に。
それでは、また。
Posted by 上山コンチェルト♪ at 15:30│Comments(0)
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